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12月14日(水) 戦後のエネルギー・原子力行政と政治の責任(その1) [論攷]
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〔以下の論攷は、労働者教育協会会報『季刊 労働者教育』No.143(2011年11月)に掲載されたものです。これから4回に分けてアップします。〕
はじめに
これから、戦後のエネルギー・原子力行政と政治・政党の責任についてお話しさせていただきます。一応、①原子力行政と政党の対応、②原発利益共同体の形成と構造、③原発「城下町」の形成と動揺、④原子力行政と日米関係という4つの内容に分けて検討することにします。
1 原子力行政と政党の対応
まず、原子力行政と政党の対応について検討します。結論的に言えば、自民党から民主党、連合まで(以下で触れるように、自治労は微妙ですが)、「ベストミックス」という考え方で足並みがそろったということです。まさに、その時に3月11日の福島第一原発での過酷事故が起こりました。
(1)原子力行政の展開――段階と特徴
①導入の開始
最初に、どういうかたちで原子力行政が展開してきたのか、それに対して政党や労働組合がどのように対応をしてきたのかということです。原子力の導入は、1954年に中曽根康弘さんたちが原子力予算を提案し、4月に成立したことから始まります。
その後、55年5月にアメリカの原子力平和使節団がやってきます。56年には原子力委員会が設置、57年に正力松太郎が科学技術庁長官に就任、8月に東海村の実験炉で「原子の火」がともり、63年に日本原子力研究所の動力試験炉が運転を開始し、65年に東海発電所で初の発電に成功、66年から営業運転が始まります。
②新設ラッシュ――特に70年代
資料1(略)は、それぞれの長期計画と実績を表しています。最初は実績が長期計画を上回りました。途中から、計画ほどの実績は上がっていません。しかし、一貫して右肩上がりの形で、原発の増設がすすんできたことがわかります。今後も、着実に増設する計画でした。
資料2(略)は、原子力関係予算の推移を示しています。1974年の原子力船「むつ」の放射能漏れ事故、79年の「スリーマイル島原発」の事故、86年の「チェルノブイリ原発」の事故などがありました。それにもかかわらず、着実に原子力関係の予算が増えてきたことがわかります。
なかでも、1970年代には原発の新設ラッシュがあり、21基の原発が新設されています。その後、80年代16基、90年代15基、2000年代5基と
いう実績になっています。このような一貫した増設の背景には、あくまでも当初の計画を実行するという官僚システムの慣性=硬直性があります。
同時に、日本はエネルギー資源に恵まれていないから原発に頼るしかないという「資源小国論」があり、70年代中葉以降の促進要因としては「石油ショック」がありました。1974年から75年にかけて原発新設にドライブがかかっています。
このような考え方の前提になったのは、人口増とエネルギー需要の増大という想定でしたが、これは結果的に誤りでした。「まじめな」官僚の思いこみが行政の暴走を生みだすというのはよくあるパターンですが、エネルギー問題でも同様です。
「人口はどんどん増え続けるに違いない」「経済成長にともなって産業活動が活発化し、エネルギー需要も一貫して増大するに違いにない」というのは官僚の
思いこみにすぎませんでした。実際には、人口のピークは2004年12月の1億2783万8000人で、現在は自然減になっています。電力需要のピークは
2001年7月24日午後3時の1億8269万キロワットです。その後は「失われた20年」とも言われる経済不況になり、「リーマン・ショック」もありま
したから、産業活動は低下し、電力需要は下がり続けています。
この夏、「電力危機」と言われ、供給不足から大規模停電が発生するのではないかと心配されました。結局、節電などの対応もあり、東京電力は電力が余って
東北電力に融通しました。東北電力の電力不足は7月末の集中豪雨によって水力発電所が被害を受け、一次的に供給が低下したためです。これが復旧すれば東北
電力も供給力を回復しますので、言われているほど供給不足ではなかったことが実証されたわけです。
③重大事故という障害
原発の増設が計画通りにすすまなかった一番大きな要因は、相次ぐ事故の発生だったと思います。すでに紹介したように、1974年に原子力船「むつ」の放
射能漏れ事故、79年「スリーマイル島原発」事故、86年「チェルノブイリ原発」事故、95年「もんじゅ」ナトリウム漏れ事故、99年ジェー・シー・オー
(JCO)臨界事故、そして今回は福島第一原発の過酷事故と、原発事故が相次ぎました。これ以外にも、小さな事故は枚挙にいとまないほど発生しています。
「原発は危険ではないか」という周辺住民の危機意識が高まったのは当然です。あるいは、これらの事故についての情報隠しなども発覚し、原発に対する不安や不信の高まりなどがありました。これを背景に反対運動も発生し、さまざまな障害が生じてきました。
アメリカでは「スリーマイル島原発」事故以降、新規の原発建設はありません。ヨーロッパでも、「チェルノブイリ原発」事故以降、反原発運動が高揚し、西
ドイツ、イタリア、スウェーデンなどで原発からの撤退の動きがおきました。ただし、スウェーデンの場合は原発廃棄法案が88年6月に可決されましたが、そ
の後も原発の増設がありました。最近では、福島第一原発事故をふまえて、ドイツ、イタリア、スイスが脱原発へと転じたことはご存知の通りです。
④環境問題浮上による原発ルネサンス――環境に優しい「クリーン」なエネルギーという虚像
このような原発事故の影響を受けて、一時は原発増設にストップがかかりました。しかし、今世紀に入って、環境問題を契機に「原発ルネサンス」といわれる状況が生まれ、原発は二酸化炭素を出さない「クリーンな」エネルギーだという虚像が強く打ち出されます。
たとえば、国際原子力機関(IAEA)の2010年度年次総会の開会声明で、天野事務局長は「地球温暖化や環境汚染が進む今日、クリーンなエネルギー源
として原子力エネルギーに関心をもつ国が増えてきた。現在は原子力エネルギーのルネサンスを迎えている」と発言しています。
しかし実際には、ウラン燃料の精製、輸送、発電施設の建設などに際して、二酸化炭素が多く排出されます。また温暖化という点では、膨大な温排水の問題が
あります。原発で発生する熱量のうち発電に使われるのは3分の1で、残りは水で冷やされて海に捨てられ、直接、海水を温めています。日本の場合、54基の
原発全てから排出される温排水は約1000億トンに上り、日本全体の河川の流出量である4000億トンの4分の1に当たります。
それ以上に、放射能による入口(川上)と出口(川下)での環境汚染という問題があります。「入口」と言うのは原子力発電が始まるまでで、ウラン鉱石を採
掘して精製する時に生ずる残土の処理問題です。ウランの採掘は14カ国で行われ、残土は16億8000万トン以上に上ります。国連科学委員会は人類の最大
の被曝源はウラン鉱山の鉱滓にあると指摘しているほどです。
「出口」は使用済み核燃料(「死の灰」)の処理問題です。原発は「トイレのないマンション」と言われるように、「死の灰」についての解決策がなく、日本でも最終的な保管場所をどうするのか決まっていません。
使用済み核燃料の保管場所として六ヶ所村がありますが、これはプルトニウムを取り出すための施設で、一次的に保管されているにすぎません。そこに持ち込
まれない燃料については各原子力発電所の敷地内に保管され、今後8年ぐらいで満杯になると言われています。福島第一原発の事故が起きなくても、「死の灰」
の最終処分をめぐって、いずれ「原発をどうするか」という問題が生じたでしょう。
そして、今回の放射能漏れ事故による環境破壊です。その破壊力は、二酸化炭素による地球温暖化などとは比べものになりません。これがどれほどの範囲・規模で、どれほど大きな破壊力を発揮したかは、いまだに不明です。今も、新たな事実が次から次へと出てきています。
まだ充分に判明していないのは、周辺の自然や海洋汚染という面での影響です。草木や昆虫、動物、鳥、魚や貝、海草などに、どのように放射能が影響を与え、蓄積されているかはほとんどわかっていません。
農業への影響も深刻です。乾燥した稲ワラの汚染や遠隔地でのホットスポットの発生、農作物汚染などがあり、いま心配されているのはお米ですが、幸い早場米の調査ではセシウムは検出されていません。自然が芽吹く来年の春以降、環境に対する放射能の破壊力は、もっと明らかになると思います。
人的被害という点でも、福島で調査をした子どものうちの45%の甲状腺から、被曝の事実が発見されています。乳幼児や若年者などへの放射能被害は、長い時間が経たなければはっきりしないという問題もあります。
いずれにしても、原発をめぐる問題状況は、国際的にみればその推進にストップがかかりつつあったのに、今世紀に入って再びドライブがかかってしまった。そこに、今回の福島での苛酷事故が発生し、大きな転機を迎えることになったというわけです。
(2)政党の対応
次に、このような原子力行政や原子力発電事業に対する政党の対応という問題です。
①自民党
自民党は一貫して原発を推進する立場でした。自由党と一緒になって自民党をつくった民主党の方がより積極的で、その中心になったのが中曽根さんです。その自民党も原発事故後は多少動揺したようですが、再び推進論が強まっているのはご承知の通りです。
7月中旬の「国家戦略本部」の報告では、原発の稼働維持を前提としたエネルギーの「ベストミックス」という方向が打ち出されています。河野太郎さんなどが6月につくった「エネルギー政策議員連盟」はどちらかといえば見直しの方向ですが、あとは推進する立場です。
②旧社会党・社民党
旧社会党、現社民党ですが、社会党も当初は原発推進論で、その後は反原発に転じました。その中心になったのは地方の活動家であり、原水禁(原水爆禁止日
本国民会議)です。正式に原発反対に転換したのは、72年の第35回党大会で19の地方本部が共同提案した「原発、再処理工場の建設反対運動を推進するた
めの決議」を満場一致で採択したときでした。
しかし、80年代中頃からは、次第に動揺するようになります。90年代に入って、自社さ政権への参画などがあり、政界再編による社会党の分裂や社民党の
結成以降は原発推進の方向が強まりました。この勢力は民主党に加わっています。反原発の勢力は社民党や新社会党に流れています。
③共産党
共産党も、当初、原子力の平和利用を進めるという立場で、ソ連の原発にも反対ではありませんでした。また、将来の原子力エネルギーの平和利用についても反対していませんでした。
しかし70年代のはじめごろから、商業用原発の新設などについては現地で反対する動きがありました。その後は共産党も一定の危機意識をもって国内の商業
用原発に反対するという方向を強めていきます。その契機になったのは、74年の原子力船「むつ」の放射能漏れ事故でした。
それでも、核兵器廃絶という点での力の結集を優先して、原水禁運動と反原発運動を結びつけることには慎重でした。原発ゼロをめざす方向が明確になったの
は今年の5月です。メーデーの挨拶で志位委員長は「原発からの撤退を決断すること、原発をゼロにする期限を決めたプログラムを策定することを強く求める」
と発言し、脱原発へと転じています。
④民主党
民主党は結党当初、原発について慎重でした。しかしその後、積極推進政策へと転換しています。
96年には「原発はすすめるが慎重に」と言い、98年の新民主党の結党時は「過渡的エネルギー」と位置づけていました。しかし、政権参加の可能性が強まる
中で、あるいは政権に参加して以降、09~10年にかけて原発推進政策へと転じ、マニフェストには「国民の理解と信頼を得ながら着実に取り組みます」と書
かれています。
民主党政権は2010年6月18日にエネルギー基本計画を閣議決定しました。これは自民党時代に始まったエネルギー基本計画の見直しですが、この中で「2030年までに、少なくとも14基以上の原子力発電所の新増設を行う」としています。
これは現在、白紙とされ、今国会では承認せず先送りとなりました。このように民主党はそれまでのような積極推進の方向からは転換しましたが、明確に脱原発の方向を選択したわけではありません。
⑤公明党
公明党も基本的には「ベストミックス」論による原発推進の立場をとってきました。結党時の政策では「原子力発電の将来は、……より一層飛躍が期待され
る」となっています。ただし、70年代初めから77年ごろは安保条約について批判的な見解を示したことがあります。この頃、原子力政策についても一時的に
批判的な態度をとっていました。
最近では、原発問題を担当してきた斉藤鉄夫幹事長代行が「三つの視点」として、一つ目は「太陽水素系エネルギー社会」の実現過程における“つなぎ”として、二つ目はベストミックス論、三つ目は低炭素社会実現などを掲げ、基本的には原発推進の立場を打ち出していました。
同時に、高速増殖炉「もんじゅ」の廃止を盛り込む方針を明らかにし、使用済み核燃料の再処理についても否定的になってきています。しかし、稼働中の原発をどうするのか、あるいは定期検査を終えた後の再稼働をどうするのかという点では、はっきりした態度を示していません。
⑥みんなの党
みんなの党は、すでにある原発については継続し、新規建設や「もんじゅ」などを含めて「核燃料サイクル」は凍結、発電事業と送電事業の分離など電力事業の自由化を進めるとしています。後者の点は、エネルギー政策というよりも規制緩和論の立場からのものです。
このように、公明党やみんなの党まで含めて、従来の原発推進の路線をそのまま維持するということではなくなってきています。しかし、今後どうするのか、
脱原発依存の方向に向かうのか、それをいつまで、どのようにおこなうのかという点について、共産党や社民党以外の政党では明確なっているわけではありませ
ん。動揺しつつ、世論の動向を見極めようとしていると言っていいと思います。
(3)労働組合の対応
①連合
労働組合の対応ですが、連合は2008年11月にエネルギー政策についてのプロジェクト・チームを設置し、原発政策の見直しに着手しました。2009年
9月に中央執行委員会に報告を出し、2010年8月の第11回中央執行委員会で「エネルギー政策に対する連合の考え方」を採択。連合として原発推進に踏み
込むことになりました。
この論拠となったのが、化石エネルギー、原子力エネルギー、再生可能エネルギーの「ベストミックスの推進」です。この「ベストミックス」論こそが、原発を肯定する有力な論理になっています。
そのうえで、「現在計画中の原子力発電所の新増設については、地域住民の理解・合意と幅広い国民の理解を前提に、これを着実に進める」としています。この半年後に福島第一原発の過酷事故が起きてしまったわけです。
東日本大震災が発生した3月11日のまさにその日、連合は第18回中央執行委員会を開いていました。そこでまとめられた「政策・制度 要求と提言」に
は、「より高度な安全確保体制の確立を大前提に、原子力発電の高経年化対策と設備利用率向上をめざす」と書かれていました。
その後4月20日に、これについては凍結することになりましたが、当然でしょう。しかし、凍結ではなく、脱原発依存の方向に明確に転換するとともに、そのような方向に世論を変えていくイニシアチブを連合自身がとるべきだと思います。
②自治労
連合が原発政策を推進の方向に転換してしまった背景として、一つ指摘する必要があるのは自治労の黙認です。自治労は連合のプロジェクト・チームにも入っ
ていますし、政策決定をする三役会議にも徳永委員長が入っていました。連合が正規の機関決定をおこなったということは、自治労が原発推進への転換を黙認し
たということを意味します。
当然、自治労の大会で議論になりました。ウェッブに掲載された文章によれば、総括答弁で徳永委員長は次のように述べとされています。
「最終的には連合の三役会議そして中央執行委員会でこのエネルギー政策の確認をしましたけれども、三役会議のなかでは私の方から改めて自治労としての立
場を明確にしながら、ベストミックス、化石エネルギー、原子力エネルギー、そして自然エネルギーのこのベストミックスをいかにきっちりと対応していくの
か、そのうえで脱原発に向けての取り組みを展開をするという自治労方針について明確にしたうえで、全体での確認がされてまいりました。」
つまり、ベストミックスにきちんと対応したうえでの脱原発ということで、原発を含めた「ベストミックス」論に取り込まれてしまっています。しかし、このような対応は失敗だったと反省したのでしょう。福島での原発事故以降、連合の中で自治労は強く脱原発を訴えています。
③全労連と全労協
全労連の対応については、前回の研究会で報告されたそうですが、第6回幹事会で「原子力発電所への対応についての全労連の政策提言(案)」を確認してい
ます。全労協も「脱原発プロジェクト」を発足させています。どちらも、脱原発の立場であるといって良いでしょう。立場が共通しているわけですから、今後、
力を合わせておおいに運動を盛り上げてもらいたいと思います。
(4)住民・市民などによる反原発運動の展開
住民・市民などによる反原発運動の展開ですが、導入が始まった1954年の段階では、原子力の平和利用について反対する意見は与野党ともにほとんどあり
ませんでした。ただし、55年12月に原子力基本法が自民・社会両党所属の全衆院議員による議員立法として国会に提出されますが、これに共産党は反対して
います。
この後、住民・市民などによる運動が始まってくるのは1957年のことでした。大阪の街の中に研究用の原子炉をつくることに反対する関西研究用原子炉計画反対運動がおこります。この反対運動の結果、場所が二転三転しました。
64年には、三重県
足浜原発建設反対運動がおきます。これは公害反対運動の一環として「原子力公害」「放射能公害」反対としておこなわれました。68年9月には新潟県柏崎市
で開かれた地区労大会が原発誘致反対を決議し、地区労、社会党、共産党などによって原発反対市民会議が結成されています。
69年7月には、全国原子力科学技術者連合(全原連)の第1回合宿がおこなわれています。これは、東大、京大、東北大、東工大、名大、阪大、九大などの
若手研究者が原発について研究するなかで、どうも原発には問題があるのではないかということで推進から反対に転じて作られた団体です。
翌8月には、原水禁世界大会ではじめて核燃料再処理工場設置反対の決議がおこなわれています。また、71年には日本科学者会議が反対派住民と初の「原発シンポジウム」を北海道岩内町で開催しました。この頃から、各地で原発反対運動が芽生えてくるということでしょうか。
このような反対運動の状況を反映して、72年11月には原発・再処理工場設置反対運動情報・連絡センターが原水禁本部のなかに設置されます。75年9月に、高木仁三郎さんたちによって原子力資料情報室が発足しますが、その前身になったのがこの情報・連絡センターです。
このようななかで、74年に原子力船「むつ」の放射能漏れ事故があり、これを一つの契機として75年に共産党が党として商業用原子炉反対を打ち出します。その後の紆余曲折はありますが、この頃から住民・市民レベルの反対運動が定着したといえるでしょう。
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